タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース

●ニュースNo.189(2004年6月15日発行)

■裁判員制度は裁判の死だ(富山保信)
富山裁判は人間らしく生きるためのたたかい  大槻泰生

 

大井町ビラまき報告


Home Page News

■裁判員制度は裁判の死だ

 5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(裁判員法)が成立しました。「5月28日の公布から5年以内に実施される」となっています。
 最高裁や法務省、日弁連執行部が「裁判が変わる」と鳴り物入りで囃したててきた裁判員制度ですが、問題はどう変わるのか、良くなるのか悪くなるのかです。ロースクールと並んで「司法改革」の目玉とされる裁判員制度は、はたして日本の刑事裁判の現状の改善・救済となるでしょうか。
 結論から言えば、裁判員制度なるものの内実が明らかになるにつれて現行の刑事裁判を少しも改善するものではない、それどころか裁判の死、まともな裁判の消滅をもたらすものであることがはっきりしてきました。正体が露呈してきたということです。
 再審請求している当事者にとって死活のかかる大問題なので少し論じます。

 まやかし「司法改革」は裁判の否定

 ―まともな裁判は姿を消す

 まず前提として確認できるのは、日本の刑事裁判の実態を知るものにとって《司法改革》は急務であり切望でもあるということです。1980年代に相次いだ4人もの死刑囚の再審無罪は、有罪率99・9パーセントの背後に膨大なえん罪が存在するという日本の刑事裁判の現実の姿を衝撃をもって知らしめました。日々処刑の恐怖とたたかいながら、それをのりこえて再審無罪をかちとった無実の死刑囚の苦闘は、じつは例外ではなく刑事裁判の原則とか鉄則といわれるものがほとんどないがしろにされ、かえりみられない日本の刑事裁判において血の涙を流し続けてきた被告たちの典型的姿にほかならなかったのです。だから、心ある法曹はこの現実を少しでも改革・改善しようと努力しつづけてきたのです。従来、追求されつづけてきた《司法改革》とは、そういうものでした。
 では、現在急ピッチで進められている「司法改革」は、えん罪の根絶と人権の確立・強化をめざす努力を支え、促進するものでしょうか。ふつうに考えれば、「司法改革」と称するのだから当然そうだと思ってしまいます。しかし、残念ながら、現実に推進されている「司法改革」なるものはまったく逆の方向をめざすものといわざるをえません。
 そもそも現在推進されている「司法改革」なるものは、その登場の経緯がものがたっているように、帝国主義列強の弱肉強食の争闘にのぞむ財界の強力な要請を奇貨とするものでした。戦争と大失業の時代における人民の抵抗と反乱への恐怖と危機感をつのらせる支配階級、4名の死刑囚の再審無罪に示される日本の刑事裁判の実態の露呈に危機感を抱く国家権力、御用学者が結託して「司法改革」の名をもってあたかも司法の現状が変えられることによって少しでも改善・改革されるかのような幻想をふりまきながら、あわよくば「良心派」もとりこんで一気に戦時司法への転換を成し遂げてしまおうと狙ったのが「司法改革」にほかならないのです。その証拠に、司法制度改革審議会(司法審)意見書ではえん罪の根絶と基本的人権の確立・強化にむけた反省も決意もかけらすら目にすることができません。眼目は「(国民は)統治客体から統治主体へ意識の転換をせよ」、つまり「実体として社会の主人公になるのではなく意識だけ統治者と一体になれ」ということであり、個の主体性は捨て去り下僕根性・奴隷根性の塊となって「お上に仕えろ」とあからさまに要求しています。いみじくも「政治改革、行政改革、経済構造改革等の諸改革につづく『最後のかなめ』」と言っているとおり、「戦争と大失業」に反対し、抵抗する人民のたたかいを弾圧して戦争を遂行する国家とその担い手をつくりあげるのにふさわしい司法制度すなわち戦時司法体制を構築しようということなのです。戦時下のお上の裁判に盾突くなんてとんでもないというのだから、再審はもとより原審においてさえ裁判は「迅速に」なんの抵抗も混乱もなく処理されていかねばならないということになります。まともな裁判は行われなくなる、姿を消すということなのです。
 この司法審意見書にもとづき司法制度改革推進本部検討会で検討が行われ、どしどし司法制度改革関連法が成立させられています。裁判員法は、その核心ともいうべきものです。

 裁判員制度はペテンの集大成

 「司法改革」は本来求められていたものとは正反対をめざすものであるがゆえに、嘘とペテンによって人民を騙し、扇動し、動員することによってしか成り立ち得ません。したがって、成立させるために始めから終わりまでペテンの集大成ともいうべき手段が採られました。
 最高裁は「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものになり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながる」とキャンペーンを張っていますが、これこそ真っ赤な嘘というものです。
 「国民の参加」とあたかも陪審制度もどきの制度であるかのような言い方をしていますが、陪審制度とは違って「参加」は刺身のツマでしかありません。決定的に異なるのは陪審制度では有罪か無罪かの判定は全員一致ですが、裁判員制度は多数決で決められるということです。そのうえ量刑の決定にまで関与させられます。裁判員裁判は「死刑または無期の懲役・禁固に当たる罪に係る事件」つまり「重大事件」(なぜ重大事件なのか納得いく説明はありません)に適用されるのだから、たとえ「無罪だ」と判定し、主張しても多数決で決定されたら「死刑」判決にも参加を強要されます。だから、もともとわかりにくいということもあってはじめから不人気だったのですが、実態がわかるにつれて不人気度は増して、どんな調査でも「参加したくない」が70パーセントとか80パーセントという具合に圧倒的多数を占めている有様です。「裁判員は国民の義務」とは、なんたる言いぐさでしょう。結局、あらかじめ決められたシナリオ(この点は後述)にもとづき進行される、裁判官3名、裁判員6名で構成されたセレモニーの立会人にされるだけなのです。さらに「守秘義務」を口実にマスコミの取材や学問的研究からもシャットアウトされるのだから、自分が参加した裁判ははたして正しかったのだろうかと検証することすらできません。これでは「裁判はますます分かりにくいものになり」「信頼から程遠いものになる」のは必至です。
 なお、それでも評議に職業裁判官以外に裁判員が加わることによって「国民の健全な常識が反映される(はずだということでしかない。正確には、そうあって欲しいという正当ではあるが実現されない期待でしかないのでは?)」のだから少しはましになるのではないかという善意の意見があります。しかし、よく考えてみてください。国民の健全な常識の反映を期待するのなら、なぜ構成比を裁判官3名に対して裁判員は6名という具合に押さえたのでしょう。裁判員数をできるだけおさえ、しかも全員一致ではなく多数決にしたところに「国民の健全な常識など反映させない」という魂胆が見え透いているのではないでしょうか。この構成比だったら、裁判のプロである職業裁判官が「素人」の裁判員をいくらでも「説得」して多数決で勝てると踏んでいるのではないでしょうか。
 さらに、大嘘はまだあります。
 「迅速な裁判」これが曲者です。ある意味では、これがキーワードになっています。あたかも現行裁判において被告・弁護側の不当な引き延ばしや審理妨害による長期裁判が横行しており、これが裁判員制度によって是正されるかのようなキャンペーンが張られました。事実はまったく逆です。最高裁の資料が裏づけるとおり、むしろほとんどの裁判がわずか数回の公判で決着しており、例外的に長期裁判になるのは警察・検察当局のでっち上げや証拠隠匿に起因することが証明されています。それを事実をねじ曲げたキャンペーンを張り、「裁判員の人権保障」「迅速な裁判の実現」という口実を設けて集中審理を強行しようするのだから、被告の公正な裁判を受ける権利を蹂躙・剥奪するのみか、こんな不正・不当な裁判ならざる「裁判」に執行者として裁判員の参加を強制するという、二重、三重に卑劣な手口といわねばなりません。
 最高裁の「国民のみなさんの積極的な協力なくしては成り立ち得ない制度」とは、恫喝にも等しい言い方です。あらかじめ「不適格者」を排除したうえで、事件報道で処罰感情を煽り立て、予断と偏見を植え付けたうえで遂行される「裁判」が、事実を争い、真実を究明する場と呼べるでしょうか。積極的に協力するに値しない制度なのです。
 つぎにシナリオの作成とその内容についてみてみましょう。「迅速な裁判の実現」のために裁判官、検察官、弁護人による事前準備が行われ、争点整理にもとづき裁判進行のシナリオが決められます。このシナリオ作成段階で被告・弁護側の反証計画の提出、すなわち手の内を明かすことが求められるのですが、これがどういう結果をもたらすかは賢明なみなさんにはおわかりの筈です。これまで無実を証明する証拠を隠したり、証人の証言を妨害したりと様々な違法・不当な妨害行為を働いてきた捜査当局に、これまでにもましてフリーハンドで反証活動の妨害をゆるすことになります。かといって、争点整理の段階で提出されなかった反証計画を法廷で実行することは裁判長の訴訟指揮によって阻止されるのだから事前に計画を明かさざるを得ないというジレンマに苛まれることになります。いずれにせよ反証活動は阻害されるわけです。
 さらに、これまで常にあらそわれてきた証拠開示はどうなるのかという問題があります。日弁連執行部は「司法改革」をうけいれる代償に「取調の可視化」が実現されるかのような幻想を振りまいてきました。しかし、そんなものはなにひとつ担保されてもいなければ、保障されてもいません。むしろ事態は逆で、事前準備、争点整理の段階で提出された証拠以外は永遠に陽の目を見ないことになります。証拠の目的外使用の禁止という枠がはめられますから、法廷に提出された証拠の学術研究のための使用さえ場合によっては禁止・処罰されることさえありうるのです。そして、提出されなかった証拠は捜査・検察当局の手によって門外不出とされるか、破棄されることになってしまいます。いや、そもそも事前準備で明らかにされた証拠以外にどんなものがあるのかということさえ知ることもできなければ、それを法廷における追及で聞き出すということもできなくなるのです。
 これまでも検察側は証拠リストさえ提出しないというやり方で闇の中に閉じこめてきましたが、それでも法廷での尋問・追及によって風穴をこじあけるということがまったく不可能というわけではありませんでした。ところが、これからは争点整理による制限、「証人保護」の名による制限(場合によっては証人の氏名さえ秘匿されることさえある)をもって弁護人の尋問・訴訟活動に対する処罰も含む制限、妨害を加えたり、もっと徹底的に国家権力の御用弁護士ともいうべき公的弁護士(弁護士会ではなく法務省の監督下に置かれる。弁護士自治の破壊と御用弁護士化は「司法改革」の重要な狙い)の採用というかたちで第二の検察官を訴訟に立ち会わせるという方法を採って、被告の無実を証明する証拠は存在しないという虚構を成り立たせることが可能になるのです。

 再審もできなくなる裁判員制度

 これは、けっして牽強付会ではありません。私の原々審・一審に即してみてみましょう。当初、法廷に提出された目撃者の検察官面前調書(検面調書。検察官が取り調べて作った調書)はよくできており、それを読んだだけだとまるで私が真犯人であることに疑いを入れる余地などあり得ないと当の無実の私が思ってしまうくらいでした。ところが、いざ法廷で目撃証人を尋問したら証言は変転し、なによりも司法警察員面前調書(員面調書。警官が取り調べて作った調書)が何通もあるという証言が出てきたのです。この事実は隠されていました。検察官は員面調書の提出を頑強に拒否・抵抗しましたが、とうとう提出させ、それが一審無罪に結びつきました。裁判員制度のもとでは、これはできなくなります。私の無実を確信し、弁護士としての倫理と信念にもとづく訴訟活動を展開して無罪判決をかちとった弁護団は、これからはその弁護活動ゆえに次々と処罰され、私は信頼する弁護団を奪われて、弁護活動らしい弁護活動を保障されることなく、目撃証言の変遷をものがたる員面調書の存在自体を知ることができないままに公判は進行し、待っているのはシナリオどおり「有罪」の判決です。おまけに、目撃調書が何通存在するのかもわからないのだから、再審請求する手がかりさえないという状態に陥ります。
 事態はもっと悲惨かもしれません。なんとか再審請求する手がかりだけでも掴みたいと裁判員、証人に訴えたり、マスコミに取材を要請したり、学者に調査・研究を依頼したら、「守秘義務」や証拠の目的外使用禁止の侵害で処罰されることは十分予測され、再審請求さえできなくて途方に暮れるほかなくなるのです。
紅葉の秋です。さあ出かけましょう 危惧すべきことは、まだあります。司法制度改革関連法が次々と成立させられるとともに、刑法改悪・重罰化をはじめ治安弾圧法の強化が目論まれていますが、共謀罪という団結権を否定・破壊する悪法を軽視するわけにはいきません。これをゆるせば、再審活動や支援運動さえ処罰・禁止の対象にされてしまいます。なにしろ労働組合の団体交渉を行おうという会話でさえ犯罪に問おうというのだから、裁判所への申し入れさえ犯罪視され、「かちとる会」の集まりですら弾圧されかねません。まやかし「司法改革」とともに阻止・粉砕あるのみです。
 未来は絶望かといえば、けっしてそうではありません。裁判員法の施行は5年後、「国民のみなさんの積極的な協力なくしては成り立ち得ない制度」にしめされるように、「司法改革」、戦時司法体制構築の攻撃は円滑に進んでいるどころか、確固たる展望を持ち得ていないのです。以前も紹介しましたが、日弁連はまだ「司法改革」絶対反対派が三分の一の勢力で健在であり、実態が明らかになるにつれてジリジリと力を伸ばしています。これは私たちの再審運動もまったく同様です。確信を持って、倦まず弛まずにがんばれば必ず目的は達成できます。がんばりましょう。

(富山保信) 

富山裁判は人間らしく生きるためのたたかい

 大槻泰生 

 東京高裁第三刑事部による富山保信さんの再審請求棄却決定に、私はどうしようもない怒りと涙をおさえることができませんでした。

 1974年10月3日の事件発生以来、国家権力は、権力に反抗するものはこういうことになるのだという、みせしめ施策をとりつづけて今日まできました。だから、富山裁判は無理な証拠・証人認定を行いました。大勢の目撃証人のなかから権力にとって都合のよい証人のみ申請しました。そして、それを最高裁までが追認しています。

 私は慎重かつ公正であり後世の批判にたえうる決定をと考えています。そのためには「警察・検察は隠し持っているすべての証拠の開示をすべき」であり、裁判所はその命令を発すべきであります。

 しかし、今回の決定は、富山さんが犯人であるという検察側主張を否定する人の証言をとりあげず、予断と偏見にもとづく誤った判決を維持しています。証拠開示をしないのは、国家権力による犯罪の全体像が白日のもとに暴かれるからです。裁判所が隠された証拠の開示を命令し、事実審理を開始せざるをえないような創意的な行動を起こそうではありませんか。

 小泉自民党政権は、アメリカの自国の石油資源確保のためのイラク侵略に憲法を無視・否定して参加しました。恫喝と開き直りで、多国籍軍への参加も強行しています。公明党の賛成と協力で、賃下げ・首切りの強行、労働法の改悪による労働者の弾圧など団結権の侵害、医療・介護・国民年金等々福祉の切り捨て、教育基本法の改悪による国家への忠義・忠誠心の強要など戦争国家への道をひた走っています。私たち人民を犠牲にして、生き延びようと画策しています。

花より団子の秋? それを阻む道は唯一、当たり前のことを当たり前のこととして認めない、当たり前でないことを当たり前のこととして認めるといった、今の政治状況をかえていこうではありませんか。富山裁判は、そうしたたたかいの重要なひとつです。

 富山さんは無実・無罪なのです。再審開始を行え、と声を出して要求しようではありませんか。戦争はいやだ、8・6ヒロシマの再現はいやだ、と行動を起こそうではありませんか。富山裁判を通して、人間らしく生きるためにたたかいぬこうではありませんか。

(おおつきやすお・反戦被爆者の会会長・広島「かちとる会」会員) 

大井町ビラまき報告

□大井町ビラまき報告(5/30)

 今回は、
  亀さん・・・・・・12名
  富山さん・・・・・5名
  山村・・・・・・・1名
でした。

 入梅前の最後の晴れ間。真夏を思わせる強い日差しに、始める前から気分は萎えていた。
 そんな私を尻目に、亀さんは相変わらずのハイペースで署名を取っている。しかも、富山さんの前にも署名する人が並んでいるではないか。「かちとる会」のハルウララは富山さん以外ではないと侮っていたが、これはちょっとまずい展開である。
 三十分が経過するが、まだ一名の署名も取れない。焦りはじめた頃、富山再審集会に何度も来てくださっている大井町在住の方が通りかかった。
 「暑い中、大変ですね」
 「ええ。(そんなことより)署名お願いします」
 「もう、署名しましたよ」
 「再審が棄却になり、異議審になりました。今度は東京高裁第四刑事部宛の署名です(貴重な一名、ここで逃してなるものか)」
 結局、この日は一名だけ。
 「ハッハッハッ。ハルウララだ」
という亀さんの高笑いにがっくり肩を落とす。亀さん、余裕である。
 翌日、新聞を見ると、この日のダービーで優勝したのもカメハメハだった。(山村)

大井町のYさんから

休載

jump page top